プロダクションノート
文/岡﨑育之介
『うぉっしゅ』が完成するまでのプロダクションノートは
5月2日~上映映画館で販売予定、劇場用パンフレットに掲載しております。
是非そちらと併せてお楽しみください。
完成!...ん?ハイキュウってなに? 2023年8月~11月
この頃からある言葉を聞くようになる。「ハイキュウってどうなるんでしたっけ」「ハイキュウ会社を決めないとですね」。どうやら謎の“ハイキュウ”なる概念があるらしい。僕にはよく分からないそれが、なにやら極めて大事らしい。特に好んでいるわけではないが、少年ジャンプにバレーボールを題材にした「ハイキュー!!」という漫画がある。最初はそれのことかと思っていた。
ハイキュウ、それは一体なんなのか。今からその後、僕がネットの知識で勉強した「配給」について、自分なりの解釈を説明する。あくまで僕の勝手な理解なので、もしかしたら全然間違ってるかもしれないがご容赦いただきたい。
私はキャベツ農家である。自分の畑で作ったそのキャベツは甘く瑞々しくてとても美味しい。これを誰かに売りたいと思う。が、売ろうと思っても、隣の民家のおばあちゃんにあげるか、畑の脇に無人販売所を設けて数十円で並べるのが関の山。頑張ったとして、近くの八百屋の懇意の主人に「おお、じゃあ端っこに置いといてやるよ」と買い取ってもらうくらいの手になってくる。だが、このキャベツには自信がある。ぜひサミットやライフなどの大型スーパーに置いてほしい、あわよくば全国北海道から沖縄のスーパーチェーンにもこのキャベツを展開したい。でも、そんな繋がりがあるわけでもない。もし自分の足で大型スーパーに急に売り込みにいっても、向こうからすれば出所の分からない野菜。扱ってくれるわけもない。
そんなキャベツを卸売するプロ、仲介業者のような役割がある。その農作物の美味さや歯応えを存分に宣伝し、全国何百軒のサミットとも、ライフとも、イオンとも、まいばすけっととも普段から取引している存在、それが配給会社である。大型スーパー側も「あぁ、〇〇さんの売る商品なら安心だ」と二つ返事で進む。その極致を例に出せば、スーパー経営もしながら畑運営すら自らするのが東宝ほか大配給会社である。仲介と言うと聞こえが悪いかもしれないが、その作品の色合いや打ち出し方を統括し、同じ映像でも大ヒット作になるか、並の作品になるかは配給宣伝の能力が分水嶺となる。お客さんが実際本編を見る、つまり創作者の能力を測れるのは入場料2000円を払った後。そのチケットを購入してもらうまでにこぎつけられるかは全て配給会社のプロモーションにかかっているのである。 ともかく、映画公開において肝となるその要素を全く知りもせず、とりあえず作ったのだ。2時間の映像は完成した。だが今現在は、僕のパソコンにある何GBかの「研ナオコが出てるホームムービー」状態。それをこれから、劇場公開させることを目指さなければならない 。
まずその手がかりが何もない状態で撮影に挑んだことが見切り発車すぎるのだが、とめどない意欲の溢れる情熱的人間なのだから仕方ない。作りたいもんは作っちゃう。
でも、これをこのまま僕の自宅だけで見れるホームビデオで終わらせるわけには、当たり前だが絶対にいかない。あの優しさの女神のような研ナオコも、流石に鬼の形相を見せるかもしれない(それでも怒らないのがあのお方だが)。
言い換えれば、もし私がこの2023年8月時点で全部飽きてほっぽりだしたら、永遠にどうにも展開していかない、ただのデータなわけである。
本編完成。昨年4月の構想から1年3ヶ月との時を経て、ついに長編映画が形として出来上がった。だが、なんとなく良いものを作ればどうにかなると思っていた私は、8月に完成して以後焦り始める。さて、こっからって・・どうするの?
そこからの約9ヶ月、“地獄の配給会社探し”の旅路が始まる。思い返すとその期間の私はかなり憂鬱な暗い表情をしていたと思う。正直絶望するほど悩み、眠れない日々が続いた。
会う人からは「公開決まったんですかー?」という質問。SNSではなんの関係もない投稿のリプライに「公開日はいつになりますか」という声。その度に「あー今調整中でっ!」と全力の作り笑いをするのに慣れきったものだ。なんにも、決まってないのに。
背に腹を変えられなくなった僕は、とにかく思いつく限りの知人に「配給会社の紹介、オススメの会社の情報」をお願いして回り始めた。それに併せてキャスティングの際に習得した得意技、“HPいきなり問い合わせ作戦”を実行しまくった。ネット上に出てくるあらゆる配給会社、軽く50件以上メールやお手紙を送ったと思う。しかし綺麗に反応なし。映画配給は買い手市場、こんな風に持ち込みをしてくる弱小映画クリエイターは星の数ほどいるのである。どの会社も基本的には制作jから関わっているもののみに絞る時代、完成後に持ち込まれた売れる確証のない商品を扱うリスクは取らない。自主映画界隈において、配給会社が決まるというのは奇跡のような出来事なのである。もしそれが難しいなら、前述の「自分の手で八百屋に持ち込む」自主配給という選択肢になってくる。だがそれでは限りある映画館でしか上映されない。一館決まるかどうかさえ不透明。とにかくやはり配給会社、それも実力が折り紙付きで、かつこの作品を見出し、愛してくれるところを見つけなければいけない。全国公開を、成し遂げなければならない。 一ヶ月、一ヶ月と過ぎていくなかで、刻々と周りの目線も訝しいものになっていく。「あんなに意気込んでスタートしてたけど、大丈夫なの・・?」という冷ややかな目線に愛想笑いで応対する。でもだからと言って妥協するのは違う。この作品の出来うる最大限の公開で花を開かせる、それは徹底しようと思っていた。だが50件も送った問い合わせに、一向に芳しい返事は来ない。「検討の末この度はお断りを・・成功をお祈りしています」絶対本編を視聴もしてないスピードで返信が来ることもある。いわゆる“お祈りメール”。乱雑な対応に、馬鹿にされている気持ちになったこともあった。それでも来る日も祈る手を合わせながらメールソフトを開いて、天を仰いだ。
そんな3か月を経て11月、紹介である映画宣伝マンの方のお時間を貰う。配給会社探しについて相談に乗ってもらうべく東中野の地下の居酒屋に入った。「配給会社を探していて・・」そんな普段若手監督から受けまくっているであろう相談に困った表情をお見せになりながら、ある提案をされる。「先に劇場に持ち込んで決めてきちゃう、ていうの手ですよ。」膝を打った。なるほど、先に大型スーパーに無理矢理個人で営業して、確定をどうにかもらって、それを手土産に「あそこ決まってるんですよ」と仲介業者に持ち込み直すという算段だ。考えてもいない方法だった。成功のアテもない突飛な発想だが、数ヶ月なんの進捗も見せられていない現状において、輝く一筋の光明に感じた。そこから再びローラー作戦再開、東京中の映画館へ“HPいきなり問い合わせ”。気持ちはもうテロリストである。とにかく可能性のある限りアタックを続ける。なにか、なにか手掛かりが欲しい。
それでもやはり、返事は来なかった。そもそも個人で問い合わせが来ること自体劇場側からすると意味不明な迷惑なのである。交流のある配給会社と「この作品、あの作品」と決めていくなかで、問い合わせフォームに届く何処の馬の骨かもわからない自称映画監督の個人連絡は開いてもすぐ流すだろう。
撮影からもう一年が経とうとする。正直泣きそうだった。何十人のスタッフ、何十人のキャスト、何百人のクラファン支援者を「絶対にすごい作品にする!」と胸を張って口説き落としてきた。だが、なにも進まない。血走った目で丁寧の限りの言葉を尽くしたお願い入れメールを作ることにもう疲れを感じ始め、諦めることすら、頭をよぎり始めていた。
諦めかけたその時、メールが来る。差出人:某映画館運営会社。問い合わせを送ったなかで一番大きい劇場と言って全く過言でない会社である。「検討の末・・」という定型文だろうとすぐに閉じようとした僕は、二度見した。「作品を拝見しました。一度、お話しましょう。」信じられないことが起こった。正確に言うと、喜ばなかった。もう淡い期待を見出して裏切られることに苦しみ疲れていた僕は、ぬか喜びも絶対にしたくなく、感情すらその頃は湧かなくなっていた。喜びも感じず淡々とメールを読み、返信をした。「ぜひお願いいたします」。
来たる12月、某映画館運営会社本社ビル、その会議室に通された。厳正な雰囲気の漂う歴史ある建物は恐ろしさも感じる空気だった。メールの窓口である編成の社員様が待ち受けており、話をされた。「今から編成部長が来ます。実は本作は、私が見て勝手に良いと感じ、上に通した話です。どうなるかはわかりません。が、一度上の者に提案をしてもらえると。」忍びの者のように密かな打ち明けをくれたその眼鏡をかける精悍な社員様は、編成部長を呼びに行くと打って変わってお茶運びだけに徹した。半沢直樹で見たことがあるデカすぎるテーブルの置かれた会議室で待つ間、僕は殺すことに決めていた「希望」が、腹の底で沸々と湧き上がり再起しはじめるのを感じていた。
前例の無い奇跡。 2023年12月~2024年2月
「個人からの問い合わせを扱ったことは・・記憶にないですね。」某映画館運営会社史上前例のない状況に編成部長様は首を傾げていた。それもそうだ。東京のど真ん中、つまり日本のど真ん中に鎮座する超特大シネコン。世界的ハリウッド映画や大ヒット作のポスターが貼られている光景は、もしかしたら地方の方も東京観光の際に目にしたことがあるかもしれない。 そんな紛れもない日本最大級の映画館では、大規模作品や国民的アニメ劇場版が毎週しのぎを削っており、そんなところにひょんな自主映画が紛れ込もうなどとは、自主映画制作者たちからしても思いつき試してみようとすら思わないのである。それくらい高い壁、いわば邦画最高峰の到達点だ。
一方、常識のないド素人の私は、恥ずかしげもなく銀座の会議室で流暢に作品をアピールしている。なんともトンチンカンで、不躾な状況だ。だが私も、そうなることに異常性を感じないほどにこれまで打ち込んできた。全ての可能性に賭けてきた。これがきっと最初で最後のチャンス。絶対に何かの形に結びつけてやる。
彩りのない厳正な会議室での若輩のアピールが終わると、編成部長様からのお言葉があった。「可能性は0、とは言わないです。ただ、可能性がある、とも言わないです。とにかく配給会社を決めていただかないと、話を進めることができない。」会議は静かな終焉を迎えた。必死になんとか確約を貰おうとしたが「どこでもいいので配給を・・」というお伝え以上、聞く耳を持ってもらうことはできなかった。そう、やはり配給会社探しに戻ったのである。振り出しだ。どうしたものか。そして私が察するに「どこでもいいので配給会社」という言葉の裏には、「ある程度ちゃんとしたところだったら受けるよ」という意味が隠れているのを感じた。翻せば「力のないところだったら、無しで」ということだと思われる。
やっぱり、無理だった。また一からに戻った。奇跡は起きそうで、起きなかった。湧き上がっていた希望は哀れに縮んでいき、再び8月と同じ何もないスタートに舞い戻った。苦しみを感じながら再び窓口の社員様(前章先述)にエレベーターホールまでお送りいただく。そのドアの閉まる間際、「いやあ・・本当にいい作品だと、私は思いました。」無惨に閉まるエレベーターの隙間から届いた声、その何の気ない言葉にどれほど救われたか。結果は進まずとも、涙の出るような温かい感想だった。
とにかくまた配給会社を探すことになった。でも、前とは違う。今は一応、手土産がある。
「前もご連絡させていただきましたが、再度ご相談差し上げて申し訳ありません。実はその後某映画館様と少しだけお話し合いもしたりして・・」具体的な劇場名、それもどう考えても強力な名前を出せるのは大きな前進である。その武器をもとに、これまで問い合わせを差し上げた配給会社に再度願い入れを送り直していった。すると流石にいくつかの会社様から反応があった。でも、忘れてはいけない。編成部長様の言葉の裏側、「ある程度すごいところじゃないといけない」という制限がある。
昨年の正月は制作準備の忙しさのあまりカウントダウンを聞くことすらなくパソコンに向かって過ごした。ただ今年の正月は、ちゃんとゆっくり過ごせる、“暇”だった。打って変わった暇の地獄だった。配給会社探しの何が苦しいかと言えば、暇なのだ。どれだけ思いがあって、どれだけ熱意があって、どれだけ動き回りたくとも、この数ヶ月基本はメールを送って返信待ち。作品をオンラインで見てもらって、判断待ち。紹介の可能性がある筋はもう当たり尽くした。全ての人脈を使い切った。とにかくもう待つことしかできない、その暇さが吐き気のするほど悔しく、苦しい。考えることすら放棄したい心情。次回作の構想を・・脚本執筆を・・なんて悠長なことはとても気が乗らない。自分でもそんなことしてる場合じゃないだろと手が動かない。新たな企画立案もできず、一方本作は立ち止まったまま。前にも、後ろにも進めない。重い沈鬱を胸に抱えながら、正月を過ごした。ただ裏腹に、明るくは在った。明るく過ごさないと、来る運も降ってこない。人と会う時は、自信満々かのように振る舞った。実は人生、これまでもずっとそうだったのかもしれないが。
そんな折に来た一つのメール。ある結果の通知。正直に言うと僕はそれを受け取った時は気が乗らず、非常に失礼ながら意味のないことにすら感じた。だが、この祝福すべき報告が、のちに物語の運命を大きく動かすことになるのをこの時の僕はまだ知らない。不貞腐れ顔で受け取ったメールの記載はこう。「第19回大阪アジアン映画祭に作品をご応募下さり、誠にありがとうございます。現在、ご応募いただきました『うぉっしゅ』が最終選考に入っており、その後の状況に変更があればお知らせいただけますでしょうか?」
大阪アジアン映画祭 2024年3月
毎年3月に大阪で開催され、その年の優れたアジア映画を上映する。国内では東京国際映画祭に次いで二番目の権威という呼び声も高い。それが大阪アジアン映画祭である。
本当に情けない勉強不足な私は、ただ調べるままに応募したものの、どれほどの規模の映画祭かわかっていなかった。また、もう半ばヤケになっていたといって嘘でない当時の私の心境として「どうせ意味ないでしょ」と入選辞退も考えた。映画祭というのは作品の露出タイミングを考慮して辞退することも時にある。だが関係者に相談すると「絶対に入選で進めるべき。本当に良い映画祭。私は日本では一番の映画祭だと思っている。」という声。もちろん光栄すぎるお声がけ、何も無い立場で断る選択肢なんてあるわけないのだが、それくらい後ろ向きになっていた頃であったのだ。映画祭というのは映画の買い付け市場的な側面も持っている。それが本来の役割とも言える。現地での交流に懸命に参加すれば、良作を探しに来た配給会社の人間と出会える可能性もあるかもしれない。
「ありがとうございます。ぜひ、この度は本作入選で進めていただければ幸いです。」そうお返事し、正式に一ヶ月後、大阪でワールドプレミア(世界初上映)されることが決定した。役者時代に映画祭に参加したことはあったが、監督として参加するのはもちろん初めてである。一体どんなもんだろう。大阪には知り合いもいないし土地も知らない。10日間全部いる必要あるかな?暇になったらどうしよう。ホテルに篭って過ごそうか。憂鬱だ。どうせ悲しい思いをして、また帰ってくるに違いない。期待しない。期待しない。辛かったら帰ってこよう・・!
そう思って向かった大阪10日間の滞在。鮮やかに裏切られ、この数年で一番輝いて美しい、キラキラとした、最高の思い出となった。信じられないほど、華々しく楽しい日々だった。
まずなにより、大阪の街がめっちゃ楽しい。本来旅好きで世界30カ国をバックパッカーもした私が、この数年の多忙さによって旅することのかけがえのない面白味も忘れてしまっていたようだ。毎日毎日知らない風景の中を練り歩き、冒険した。「初めての街を歩くことが実は人生で一番好きなことかもしれない」と改めて思い直す。そして大のお笑いファンでもある私は漫才の劇場、なんばグランド花月にも訪れた。笑いの本場の空気は、至上の贅沢だった。
大阪アジアン映画祭初日3月1日、本作の世界初上映、そしてそれはつまり「自分が作った作品が誰かの目に触れる人生初めての機会」。とてつもない貴重な日となった。有難くも研ナオコさんも舞台挨拶登壇に大阪にいらっしゃることが決まり、私・中尾有伽・研ナオコの3名で上映に挑んだ。超満員。不思議な気持ちが起こった。言葉にするとすれば、恥ずかしい、が適切かもしれない。大阪の地で舞台上に立つからには笑いの一つや二つ取らなければいけないという不必要な責任感にかられていた私は、万全にトークを仕込んでいった。そしてそのどれもが(たぶん)会場が割れんばかりにウケた。持ち前の話術も日の目を見た瞬間である。研さんとのボケツッコミも、映画本編も拍手喝采を受け、華々しく終わった。観客たちからは上映後「本当に良かった。」「おじいちゃんおばあちゃんを思い出した。」と涙ながらに言葉で口を震わせ、「もしかするとこの映画は良い映画なのかもしれない」と少し思った。終わった後の打ち上げ、わざわざ東京から来たキャスト/スタッフとともに夜を明かした。ほぼ酒を飲まない僕が口も回らない状態になったのは言うまでもない。
それから大阪での10日間、なにより楽しかった。映画祭というものの良さを感じた。まるで大人数で旅行しているような感覚。そして本作は初日上映&研ナオコ様が登壇することで開催前から話題になっていたのもあり、参加者が皆『うぉっしゅ』のことを知っているのだ。「あ、あのうぉっしゅの監督?」と次々に声をかけられるのはとても居心地が良かった。いよいよなんだか「映画監督」にでもなった気分。その自覚がちょっぴりでも芽生えたのはこのときが初めてだったと今思う。監督同士お互いの作品がラインナップされているため、互いのことを名刺代わりにある程度知っている状態で出会える。毎晩のようにどこかで飲み会が行われ、梅田に一同行きつけのバーもでき、新しいクラスに配属された学生のようにウキウキしながら毎日を迎えた。
しかし、その裏で重要な任務、配給会社関係者探しを遂行していたわけだが、そちらは芳しくなかった。やはり出会いは運、天命のようなもの。わかりやすい手応えは掴めずに日々が過ぎていった。
最終日。閉会式とともに別れの時。大阪の地でできたいくつもの思い出。出会った友とのまた会う約束。清らかな滞在の終幕を笑顔で過ごしながらも、心の底に溜まり続ける不安。結局収穫がないまま、帰るのか。荷造りを終え、長らく過ごした宿に別れを告げる。東京に戻る便の車窓から僕は遠くを見つめる。楽しかった時間が脳裏を巡るが、戻れば現実が待っている。最後の手がかりとなりそうだった映画祭が終わってしまった。また遮二無二この作品の今後の展開を模索する日々が始まる。そろそろ、そろそろどうにかしないといけない。撮影から丸一年。いよいよ諸関係者が黙っていないだろう。全員から睨まれているような圧迫感を感じる。怖い。暗闇に戻るような気分だった。それでも、この期間で出会った感情や人々、経験は嘘ではない。それをせめて形に残す。ひいては周りに「順調です!」と引き攣った笑顔で体裁を保つために、東京に着いてXでポストをした。「キラキラした10日間を忘れないだろう」英文も添えて。しっかりと証を刻み込んだそのポストを自分で眺め、満足し、これから再び始まる戦いに決心をつける。負けない。眼光鋭く一歩踏み出し、スマホを閉じようとしたその時。色鮮やかなハートマークで「いいね」が付く。いつも反応をくれるフォロワーとは違う見慣れないアイコン。そのアカウント名は「NAKACHIKA PICTURES代表・小金澤剛康」。僕は自分の目を疑った。
ナカチカピクチャーズ、人生を変える出会い 2024年3月
いまも実はまだ理由を知らない。あの時僕のポストに突如「いいね」をくれた理由を。今度お会いしたら聞いてみようと思う。いや、まだ聞かなくていいか。それを知るのは、まだまだ先の旅路の果てで。
配給会社探しをしていた一年間、ご紹介はなかなかいただけなくとも「おすすめの会社様はありますか」と聞いて回っていた。その中でお世辞でなく何度も挙がった名前がある。「ナカチカは本当に勢いがあると思う。」「今一番脂が乗っている配給はナカチカだね。」業界誰に聞いても評判がずば抜けて高い、まさに潮流の最先端を行く、映画配給会社・NAKACHIKA PICTURES。真っ先にホームページを見たら驚嘆。確かにこれは凄そうだ。めちゃくちゃカッコいい。掲載されている作品もセンスある話題作たち。みるみる湧く憧れの想いと同時に「いや、絶対無理なんだろうな・・」と諦める気持ちも覚えた。皆が話題にする、精鋭の集まった映画業界きってのチーム、かなり高い壁。取り合ってもらえる、わけもない。しかし目指すなら最上級の形を。研ナオコと約束した「例えなにがあっても妥協しない」その訓示だけは常に胸に秘めてきた。NAKACHIKA PICTURESを最高目標に据えた私は、あらゆる情報筋にあたってナカチカ関係者が来るかもしれないと噂の映画業界パーティなどに一縷の望みを持って足繁く通った。4時間のパーティでひたすら待ち、誰と交流するでもなく無言でケータリングのピンチョスを全種類3周たいらげ、終わり際主催者に尋ねると「あー結局いらっしゃらなかったみたいですね」と言われ涙目で寒空のなか帰宅したのを今も忘れない。それでも、それでも届かない頂であった。でも、ある可能性は全て試し切るタチの僕は心の底でナカチカというちょっと間の抜けた四文字の響きを意識し続けていた・・・。時は経ち、その四文字のことは忘れかけていた。いや、忘れようとしていた。身の丈にあった運びを目指そうと、謙虚な心持ちに移り変わっていた。最後の望みを懸け来訪した大阪、そこでも明確な収穫はなく東京駅に降り立つ。大阪滞在の楽しさに気を紛らわせ、これでよかったんだ。楽しかったからそれで十分だったんだ・・・!そう思い込もうとした僕の元に突然届いた「いいね」、NAKACHIKA PICTURES代表・小金澤さん。震えた。僕は光の速さで指を動かし、ようやく手にしたルートにDMを送った。「初めまして。突然のご連絡失礼いたします・・」鬱陶しいくらいの長文で丁寧さと強烈な熱意を織り交ぜ、本編WEBリンクをお送りした。ピンチョスをひたすら食べたことも記載した。あとは、待つしかない。いくらパッションがあったって、作品が魅力的だと思われなければ、話は進まないのだから。ライトなご返信を受けてから数日後、連絡があった。「監督、作品とてもよかったです。一度会いましょう。」血流がドクドクと巡るのを感じた。なにかが起きている。なにかが・・。これまでも研ナオコ様、某映画館と、有り得ない奇跡は起こり続けてきた。しかしそこにどうしても最後、必要だったピース。それが、埋まる光明。
お打ち合わせ当日、尋常じゃなく緊張していた。快晴の空。そこにふらりとNAKACHIKA PICTURES代表・小金澤さんは現れた。電話しながら道でウロウロ迷っていた。ご挨拶をし席に着くと、神妙でありながら緩やかに会話は始まった。本作の経緯、創作の思い、現在の状況、包み隠すことなくお話した。小金澤さんは甘い表情をするでもなく、一方険しい素振りを見せるでもなく、フラットに僕の目を見て話を聞いていた。これは今も話したことはない(し、失礼かもしれない)が、小金澤さんの居方は僕に少し似ているところがあるように感じる。どこか軽妙に時におちゃらけて振る舞いながらも、奥底で鋭いものを持って相手に接する。とにかくこのお方はとても優れたビジネスマンなのだということは時を要することなく察した。そして一通り話したあとに返ってきた一言。「まず、うちでやろうと思っています。」脳が痺れる。電流が走った。何ヶ月も追い求めてきた配給会社との契約が今叶おうとしていることが、言葉を受けた後もまだ信じられなかった。明らかに僕の人生を救う人間だった。簡単な業務事項を話し終えると「某映画館にはうちからも一本電話入れときますよ」と、とんでもなく重い相手だと思っていた映画館のことを淡々と話す様に腰が抜けた。翌週、ナカチカ・某映画館運営会社・僕の3社での会議が行われることが決まった。お帰りになった後、共同プロデューサー神原さんと興奮で騒いだ。うおおおおおおおおお!いける、いけるかもしれない。すごいことが起こりそうだ。苦楽が報われ始めている気配があった。
しかし、まだ安心はできない。やはり配給会社としても「某映画館が決まりかけている」ことが大事なポイントだったことは間違いない。結局3社会議をしてやっぱり上映は難しいとなった場合、話が全部流れる可能性も有り得る。まだ、気は抜けない。決戦の日まで。 決戦は4月3日。あの厳格な某映画館の本社に、いざ再び参る。
いざ、ナカチカ・某映画館・新米監督、3社会議 2024年4月~7月
2024年4月3日、煌びやかなオフィス街に降り立った。緊張から30分くらい早く到着して、サラリーマンの闊歩する中をその街に馴染まない若輩の出立ちで佇んだ。
今日で人生が決まると言って過言でない。意味もなく天を仰いだりして待った。そして会議室に通された。4ヶ月前にも来た時と同じ部屋、何度来ても背筋が凍る圧迫感。社の長い歴史が建物全体から滲み出ている。極限状態に潰されかけ顔面が強張る僕を横目に「あーどうもどうも!僕がこっちの席ですかね、あ、違うか、こっちか」とわけのわからない小金澤さんの冗談から会議はテンポよく滑り出した。心強い。この人が今日からは、“味方”なんだ。明るく楽しい世話話をして先方との空気をほぐしたあと、事態は急転。小金澤さんが本作『うぉっしゅ』について話し始める。「この映画は、人と人との距離が離れてしまった今の時代に、絶対に必要な作品なんです。」前回の打ち合わせでも「良い作品だった」とは言ってくれた。でもこのお方の語り口調だから、あくまでお世辞として、テイよく褒めてくれただけだと思っていた。その小金澤さんがこの『うぉっしゅ』について、本気で、アピールしている。僕は、なんだか信じられなかった。2022年夏、企画を立ち上げたその日から、スタッフを集める時もキャストを集める時も“僕”が僕の口から「この作品はこんなところが良くて」と説得をしてきた。僕が誰かにこの映画のアピールを続けてきた。僕しかいなかった。しかしそれが、第三者の口から、第三者の耳にアピールされている。もちろん契約会議、一割り増しの営業トークで褒め称えているのはあれど、本当に心の底からこの作品を良いと思っている言葉に感じた。するとあろうことか、銀座という場所に聳える、極めて厳正で厳格な雰囲気の会議室で、僕は号泣しはじめた。嬉しかった。とにかく、嬉しかった。僕じゃない人が、この作品の良さを今本気で熱弁している。決してまともな体制ではない僕発信の自主映画、2年間続けてきて、初めてのことだった。嗚咽を漏らしながら伏せているなか、話はとてつもない方向に進んだ。編成部長様からの信じられない言葉「四週間で考えています。5月2日、ゴールデンウィークからでいかがですか」。身震いする、という言い回しがあるが、僕はこのとき本当に身体が震えた。ありえない。意味がわからない。ちっぽけでなんの実力もない僕が、暗い部屋で不意に思いついたアイデア「ソープ嬢がおばあちゃんの介護をすることになる」。それが偉大なキャストとともに、壮大な映像になり、そして客としてしか交わらないと思い込んでいた巨大シネコンで、映画業界が作ったと言われる用語・GWに、四週間の興行公開?・・・いや、有り得ない!!!
しかしこれは、有り得てしまった。自主映画が某映画館に。謙遜するのをやめてしまえば、この2年間ひたすらした僕の努力は、すごい結果に結びつく運命を元から持っていた。
本社ビルから出る。颯爽と次の現場に向かったナカチカチームと解散し、僕は神原さんと喫茶ルノアールに入った。世界が鮮やかに輝いて見えた。視界そのものに、光の金粉が舞い降りているような景色。そもそもルノアールは高級感ある内装だが、より一層中世の絢爛を思わせた。大切な数人に報告する。また少しだけ涙が出た。やっと、やっと良い報告をできる日が、来た。
ここからは速かった。電光石火の如く巨大な体制が整う。人形町のナカチカオフィスで打ち合わせの連続。このオフィスに僕は今も行くたびにワクワクする。そういうスイッチが仕込まれている。コンクリート造りでかっこいいその社屋は、僕にとって新しいすごいことが始まる場所として脳にインプットされたらしい。ドアを開けるたび子供のようにドキドキする。それまでの控えめだった理想に比べればえげつない目標を掲げた宣伝プラン。業界各所から集まった精鋭たちのプロの戦略会議。文字通り、面白いように事が運んでいく。これまで溜めに溜めたダムが決壊し、激流となって流れ始めたような様相。さぁまだまだ先でもあり、実はあっという間であろうちょうど一年後、2025年5月2日全国公開に向けて。次章からはまた未経験のゾーン、“宣伝”が始まる。
宣伝篇、開幕。試写の嵐 2024年8月~12月
ついに全ては揃った。作品・配給・劇場。3つの矢。追い求め続けていたピースは揃った。それも誰が見ても壮大な、夢のような形で。本作はここからようやく公開に向けて歩みをスタートする。
ここから始まるはプロモーションの段。「宣伝篇」。いよいよこの仲間探しから“少年漫画”も後半戦だ。
当たり前だが映画をまともに作るのが初めてであった僕は、映画を公開するのも初めて。すなわち、映画宣伝をするのも初めてである。しかも今までとは全く違うステージ。制作のクリエイティブとは打って変わって、ある種ビジネス的な領域である。人生でも未経験の種の業務だった。
公開までの一年間の長期的なスケジュールが敷かれ、あらゆる準備を始める。かつこれまで築き上げてきたものを全て引き継いでいく。それも映画業界経験有り余る熟練者たちに。営業部長様と初めてお会いしたときに「最初の5分を見てこれほど「売れる」と確信を持ったのは、私が配給したなかでは少林サッカー以来ですよ」と異次元の角度の褒め言葉をもらった。いや、流石に少林サッカーには勝ってない。だがそれほど心強い言葉はない。出会う人出会う人すべて個性的かつ精鋭の集まるNAKACHIKA PICTURESの面々はあまりにも強力。彼らのプランする今後の展開は、ついこのあいだまで草の根運動に走り回っていた僕には信じがたい大規模のものばかり。だがそれが現実的なのだという説得力があった。何十館規模の想定で、いわゆる大作映画の考え方で展開・戦略が飛び交う打ち合わせは、まるで温かいお風呂に入っているように気分がよく熱い興奮を掻き立てられた。
宣伝とは外に拡張していく作業である。すでに本作を知っている人の輪から、さらにまだ知らない人にリーチしていく。今興味を持っている10人を11人に広げる。それを百人、千人、一万人と伸ばす。もちろんそれには「知名度」なんて言葉すら似合わない研ナオコ様のお力は最重要、そのファンとなる中高年層がメインターゲット。だがそれ以上にもっともっと広くの人にうぉっしゅを知ってもらわなければならない。僕自身ド素人として、必死に考えた。都度学びながら、話を聞きながら習得し、なんとか一流配給・宣伝マンたちに食らい付いていくことでリアルタイムにノウハウを掴んでいく。それまでの創作活動があまりにも自主だったことが幸いし、プロデューサー的な思考が養われていたことで、テキパキと事務的作業をこなすのは始めてみると比較的得意だった。その勢いも借りて「契約に法人が必要」というキッカケにより会社も立ち上げた。今ではすっかり社長である。
そして迎える2024年8月、沈黙を守り続け、2年前のクラファンからぶっちゃけもう忘れられていただろう本作は、ついに大きな告知を出す。「新宿ピカデリーにて公開」。この頃からかもしれない。なにか光輝くような足音が聞こえ始めたのは。その筆頭、忘れもしない8月6日の劇場公開情報解禁。控えめに言っても、これまでの自分の人生で最大の発表と言える。もちろん大騒ぎが起きた。この日を迎えるにあたって、かなりプレッシャーもあった。あまりのことに切羽詰まり、理由はわからないが真昼の代々木公園で従兄弟の音楽・永太一郎とマジ喧嘩もした。目覚ましすぎる解禁をしたこの日から、今も続く大きな責任感と自尊心がある。この日を境に僕の人生は語り分けられるのかもしれない。ようやく僕に、表立って活動できるフェーズが訪れたのだ。
それからは怒涛。宣伝部主導のもとあらゆる施策が始まっていく。これまでとは違い指示を貰う立場。シューティングゲームのようにタスクを即打ち返していく日々が始まる。それでも、幸せだった。一年前の暇の地獄はどうしていいかわからず顔面蒼白で過ごしていたのだ。忙しいのは、幸せなことだ。
そして始まったのが、試写。これがまた大変だった。今までとは別種の精神の苦労との戦いが始まる。通常映画の試写は公開直前に4~5回ほど行われる。しかし本作はなんとその数19回。正直ちょっと異常。2024年8月~2025年4月の間、公開八ヶ月前からとにかくたくさん見てもらって、味方を作ろうというコンセプト。「この作品は本編を見てもらいさえすれば絶対に首を縦に振る」そういう思索から考えられた宣伝手法である。そんなわけでここから僕に課された重大タスク「試写招待」が始まった。自分のこれまでの経歴で得た連絡先・名刺・周りの繋がり、総勢400名ほどにメール・直筆の手紙でご招待案内を送った。これが神経を使う。ただ事務メールを送るのではなく一人一人にお願いごとをしているわけだから。気持ちを込めて送る。失礼があってはならない。誤字脱字との戦いにメンタルは大変に疲弊した。そんなお誘い、スルーされるのも普通であったが、その中でも数年ぶりの連絡に「ずっと応援してたよ!」と温かいお返事を頂戴してとても嬉しい感情を得ることも多かった。
そして現場、試写会。本当に有難い、お心寄せのもとお越しくださったお一人お一人本当に有難いが、なかなか心を使う。自分で企画(ナカチカ主催ではあるが)して、自分でお呼びして、自分で出迎えて、そして上映後自分で感想を聞く。創作料理を振る舞うために大袈裟に人を招いてわざわざ味を聞いて回るようなもの。肩に力が入らないわけがない。なによりまともに自作を人に見られること自体初めてなのだ。大阪アジアンの上映はあったがあれはあくまで映画祭、映画好きが自分の意思で来ている。この試写会は完全に更地のところに僕が不躾にもしつこく誘いお越しいただいている。意味が違う。その上、死力を尽くして制作した本作とは言え、経験の浅い素人、絶対に楽しんでもらえる自信なんて実は全くない。「ありがとうございまーす!」と笑顔で座席に送り出しドアを閉めるときは、不謹慎な表現をするがガス室に閉じ込めるような気分だった。その2時間の強制が相手の好みかなんて、わからないのだから、表現者はいつだって。普段さも自信ありげに振る舞うよう努めているが、実際かなり気にする。ともかく考えないようにし、試写会場の周りをウロウロ散歩したりして2時間を待つ。この半年定期的に通い続けた墨田区・映画館ストレンジャーは酸いも甘いも感じたかなり思い出の土地だ。耐性をつける意味でもこの試写期間は人生の重要な訓練だった。上映後は必ず監督登壇を設けていただいており、そこでいかにウケを取るかばかり考えていた。上映後、お客様たちを出迎える。すると・・泣きながら嗚咽して、まともに話せない人々。「え、ほんとに・・?」。やはりそれなりに良作なのか、絶賛のご感想をたくさん聞いた。印象的だったのは皆自ら「自分の家族の話」をすること。聞いてもいないのに「私の祖母は~」と語りたがった。人は自分の家族の内なる話を他人にしたいものなのだ。そうやって誰かの心に呼応して、連鎖して、影響を生むという、映画の偉大さもなんだか少しばかり学んだ。鑑賞後のコメントご寄稿願いも重要な任務、だがこれもそれなりに苦しい作業だった。自分の作品を厚かましくも「褒めてくれ!」と頼むわけだ。でもそれも大事。大事であると自分の頭で理解できることは、恥ずかしげもなく指導に則り従事した。もちろん中には頭が上がらないような光栄な言葉を寄せてくれる人もいる。人間同士の繋がりを、過去数十年遡って取り出し、今の展望に組み込んでいく。良くも悪くも人情を感じた数ヶ月に心は鍛えられたように思う。
試写招待以外でも、使える手段は全て使う。あそこにも、あそこにも、思いつく限りのところにメール、メール。とにかくキーボードを打つ。各メディア関係者に番宣機会を願い入れて、アポを取る。企業にもご依頼して、協力を乞う。そんな一見やぶれかぶれにも見える手法だが、振り返れば最初から僕は突撃の連続だった。キャストをオファーする時も、劇場を決める時も。そもそも本企画自体が、なんの保証もない突拍子もないアクションだ。今更怖いものはない。もしかすると僕はこの数年でそこそこ、人間としてもビジネスマンとしても、成長したのかもしれない。
冬を迎えた。今年の正月は、少し忙しくできた。年の瀬ギリギリまで稼働、家でも常に作業に追われる。でもそれは明るく前向きな、光に向かって走るような心で。よかった。まだ何も始まっていないのに少しばかりの達成感と安堵を感じる。
まだまだ未来だと思っていた全国公開までもうあと半年。年が明ければさらに本格的に、うぉっしゅが泡の如く弾け始める。
2025年襲来。迫る公開 2025年1月~3月
いつかは必ず来るわけだが、永遠に来ない気もしていた。幻想のように思っていた2025という時空。『うぉっしゅ』公開年。正月前後もすでに様々な動きをしてきたが、迎えた今年からいよいよ宣伝本格化の気配を見せ始める。これまではあくまで2025年への下準備。ここからが花開く時である。自分の中でも徐々に、本当に公開すること、そしてそのあまりに身の丈に合わない規模が、最初は嘘のようだった響きからリアルな実感に変わり始めた。それとともに自信も沸き始めた感覚がある。調子に乗ることは決して無いよう避けているが、それまでドブ板営業で這いずり回っていたところから、各方からの呼び声や評価をもらうことに慣れ始めたのかもしれない。
ここから勉強しはじめた部分で言えば、メディアでの出方。表向きのキャラクター作りの面であろう。そもそも映画監督でそんな一個人のブランディングを考えているのはとんだ勘違い野郎だと思うが、やっぱりそこは練っていきたい。これまでにない監督像を目指さねば。
取材もガツガツと入り、露出する機会が断然増えた。稀代のお喋り好きとして、喋るのは全く苦ではない。映画監督でこんなに喋れる人はいないと一応の他己評価も頂戴する。急速に撮られること・録られるものが世界に公表されることが多くなり、「期待の新人監督」だなんて特集にも場違いに登場させてもらったりもした。
解禁物が増えていき、その度にネットニュースを賑わせる。内輪にいるから目についているだけでもあると思うが、それなりに話題沸騰している感覚はあった。なにより、なぜか『うぉっしゅ』のことを知っている人が多い。業界に関係ない人でも「あ、なんかこれ知ってる」と行く先々で言われるのだ。なんでだろう?と首を傾げるが、幸せなことだからそれでいい。
予告編は特に大きな反響だった。何十万回再生は他の映画予告編と比べても明確に目立っている。異常な注目。だがそれも頷ける、それほどいい予告編だ。僕は送られてきたその映像を見た瞬間「えぐいえぐいえぐい!」と大声を出して部屋を無意味に30秒歩き回った。なんだか本当に、そこには「映画の予告編」があったのだ。幼少の頃から観ていた予告編が。シネコンでぼーっと観ていた予告編が。素敵すぎるナレーター様の「うぉっしゅ♪」という声とともに。このナレーターさんとはいつか握手したい。作り上げられた至高の体制が、僕をどんどん映画産業の世界に連れて行ってくれる。
YouTubeでの宣伝動画投稿も積極的にトライし、なるべく顔を覚えてもらうべく表に出続ける。それと同時に裏でもP的に動き回る。有難いことに海外セールスをあの日活が取り扱うことになったのは今も信じられない大躍進。国内興行にはもちろん集中しつつ、その後の海外展開も期待してほしい。併せてDCPと呼ばれる本編最終データもついに納品。いくら宣伝のガワをがんばったところで中身が良くなくちゃ意味がない。締めの最重要タスクだ。全てはこの素材から物語が始まったのだから。自宅で見ているこの映像が全国の劇場で流れると思うと、最終チェックの時は少し手が震えた。でも「もうこれ以上やることはない」と言い切れる完璧な出来であった。何十回も、何百回も2時間の映像をチェックした。妥協せずやり切ったよ、研さん。
研ナオコさんと帯同してメディア対応させていただくことも増えた。あの人のことは会うたびに好きになる。日本中が振り向くのもわかる。名古屋での地方取材にも共に行ったりした。取材での話を横でお聞きする中で、ますますあの方のことを尊敬していった。当たり前だが輝かしい経歴の裏に苦労もあったのだ。特に「あ。この曲で売れる、と感じた瞬間があった。」という、ご自身のヒットナンバーを出した20代の頃の話は深く学びになった。そして思い出深いのはテレビ朝日「徹子の部屋」収録。言わずと知れた計り知れない影響力を持つ番組。僕の顔も画面全面に出る。親交のある徹子さんとも久しぶりにお会いした。惜しくも今回僕は出演とは叶わなかったが、いつか戻ってきます、出演者として。
毎日あれもできないかこれもできないかと頭を捻り、息ぴったりの宣伝チームとともに駆けずり回った。ようやく手にできた仲間なんだ。どこまで行ったって、僕が誰よりも動いていないといけない。元来そうしないと気が済まない性分。いつだって僕がみんなを付き合わせていると思ってやってきた。いつ一人きりに戻ってもいい心構えがある(そしてそれは、これからもずっと)。でも今は僕に賛同してくれて、僕より動いてくれている人がいる。涙が出るほど幸福な財産だ。公開前から新人監督として「なんだコイツ」と目立っておくことを考えて、Xを頻繁に更新、SNSも活発に。できることは今のうちに全てやっておこう。あとで絶対に後悔しないために。
なにもなかった土地にこれほどの高層ビルが立ち上がり、誰の目に見ても、誰に話しても初手で驚かれる、巨大な公開予定。忙しなく毎日立ち向かいつつも、充実した内容で宣伝活動を行えている。これからも続々と大きなPRが予定されている。なんだかこれは、ヒットの予感もする。数年に一度邦画で現れる「自主映画が異例のヒット!」それと同じような現象の匂いがする。安直ではありながら、今までも無理だと思ったことを実現できてきたのだから、たぶん最後まで奇跡は起き続ける。愚直に謙虚に丁寧にやってさえいれば。そういった確信だけはずっとあり、不思議と微塵の緊張や不安も感じない。楽観的かもしれないが、偉業というのはそういうリラックスから生まれてきたと思う、歴代の偉人たちにおいても。
翌月4/1、この宣伝活動においても一山と言える、研ナオコデビュー55周年記念イベント上映会が待っている。たくさんのメディアが来て一斉に取り上げてもらうための大事な局面。僕も登壇。一般のお客様を何百人と迎えて、ついに、ついに新宿ピカデリーで本作をお披露目するのだ。このイベントのメディアの反応次第で本作の行く末も見えてくると言っていいだろう。だが肩肘を張ることはない。三年間願い続けてきた劇場公開、その1ヶ月前だが静かに落ち着いている。ただ、ただ取り組むだけ。波を乗りこなすように。来た人を楽しませることだけを考えて。あと、自分が楽しむことだけを考えて。